2021-1 / Volume 56 / ISSN 2733-7138

もう一つの世界、大韓民国臨時政府

日本植民地時代の始まり

大韓帝国は1905年の乙巳勒約(第二次韓日協約)締結で日本に外交権を剥奪されたのに続き、1910年には国権(主権と統治権)まで奪われた。その後1945年まで続く日本植民地時代の歴史が始まった。

三・一独立宣言

1919年の三・一運動は、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領が1918年に提唱した「民族自決」の影響を受けて展開された全国的な抗日独立運動である。民族代表33人(独立宣言書に署名した運動家たち)は3月1日の朝、泰和館に集まり、独立宣言書100枚を卓上に広げて訪ねてくる人々に手渡し、この宣言書を朗読した。そして、みんなで立ち上がり、「大韓独立万歳!」と唱えた。また、同日同じ時刻にパゴダ公園にも生徒・学生や市民約5,000人が集まり、人道主義に基づく非暴力的・平和的な方法で民族自決と自主独立を訴えた。

(写真) 三・一運動の際に民族代表33人が読み上げた独立宣言書

臨時政府の主な活動

三・一運動以降、より体系的に独立運動を展開するための求心点が必要になった。そこで1919年9月、中国・上海の臨時政府、ソウルの漢城臨時政府、ロシアの大韓国民議会を統合して、上海で大韓民国臨時政府を発足させた。初代大統領は李承晩。さらに立法機関である臨時議政院と、司法機関である裁判所を置いて韓国史上初めての三権分立を原則とする民主共和制をスタートさせ、光復(日本の植民地支配からの解放)の日まで独立運動を展開した。また、組織的に独立運動を進めるために秘密行政組織を結成し、独立の意志を鼓舞する独立新聞を発行した。

中国で繰り広げられた抗日独立戦争、そして光復

(写真) アメリカで独立運動への財政支援活動を展開した安載昌(アン・ジェチャン)の大韓民国臨時政府市民証(1924)

中国で繰り広げられた抗日独立運動は、義烈闘争や独立軍団体への支援、韓国光復軍の創設などといった武力による闘争となった。そのうち義烈闘争の代表的な事例として、李奉昌(イ・ボンチャン)と尹奉吉(ユン・ボンギル)の義挙が挙げられる。1932年1月の李奉昌の「東京義挙(昭和天皇の暗殺を狙った襲撃)」は失敗したが、同年4月、尹奉吉は「上海義挙」で日本軍司令官など約20人を殺傷した。これに対して日本が激しい報復に出たため、結局臨時政府は上海を離れることになった。その後、杭州、南京、長沙、広州、綦江を経て重慶に至るまで長い間転々としながら生き延びたが1945年8月に光復を迎え、主要幹部たちは同年11月に一市民として帰国した。当時、国内は混乱状態だったため大韓民国臨時政府の内閣や政策は継承されなかったが、自由主義と三均主義(個人、民族、国同士のそれぞれ平等な発展を目指す)の理念は1948年の大韓民国憲法に反映され、現在の大韓民国の基礎を築いた。

異世代の暮らしを体験し、理解と共感を深める - 常設展示体験館のリニューアルにあたり

楽しく共感する近現代史

近現代史の展示というと、重くて堅苦しいイメージが強い。しかし、リニューアルオープンする体験館は、近現代史を楽しく理解し、共感してもらえるよう新たな方法による展示を試みることで、これまでのイメージを覆した。近現代を生き抜いた人々の経験と記憶を共有し、その違いを感じることで近現代史を幅広く理解できるようになっている。

体験で学ぶ近現代史

私たちが学ぶ近現代史は、多くの人々の暮らしが集まったものである。客観的でバランスのとれた近現代史を伝えることも重要だが、近現代史そのものが異なる暮らしの集まりであるとしたら、その異なる「歴史の姿」を見せることも歴史博物館の役割であろう。当体験館は、見る人が近現代を生きた人々の経験に触れられるよう構成してある。

間接経験による世代間の理解

入場者はまず体験館展示場の入口で「体験カード」を発行してもらうが、そのカードによってど なるのである。展示のうち「一緒に歩く広場」というコーナーでは、入場者それぞれが振り当てられた世代に生まれていたとしたら目の当たりにしていたであろう歴史的な出来事を、インタラクティブ体験で味わう。また、順路の最後のコーナー「人生の4コマ」では、入場者が自分の顔を、観覧している時代の大きな出来事に投影した4コマ漫画を楽しめる。

より多くの人が共感し合えれば…

ひとつの物事に対してさまざまな意見が存在するものだが、なかでも世代間における意見の隔たりは大きい。これは、近現代史を見る視点においても同様である。互いの違いを認め、コミュニケーションし、共感するために努力すれば、歴史に対する私たちの理解はさらに深まるだろう。体験館を通じてより多くの人が韓国の近現代を生きた人々の違いを理解し、共感し合うきっかけになればと思う。

自主独立への願い

白凡(ペクポム)金九(キム・グ)は1919年の三・一運動直後に上海へ亡命して大韓民国臨時政府の初代警務局長に就き、1940年には国務委員会主席に就任した。本文では、所蔵資料を中心に金九と大韓民国臨時政府の独立運動を紹介する。

大韓民国臨時政府の臨時議政院で使用した太極旗

1876年に黄海道で生まれた金九は、大韓帝国が国権を剥奪されてから絶えず抗日運動に尽くした人物である。1919年の三・一運動以降は日本の監視と弾圧から逃れるために上海へ亡命し、同年4月11日に設立された大韓民国臨時政府の初代警務局長に就いた。そして1940年には臨時政府国務委員会主席に就任した。

以前から抗日運動に取り組んできた金九は、大韓民国臨時政府に加わった後は組織的に動くようになり、さまざまな抗日運動の陣頭指揮をとった。そして1931年、臨時政府の国務領を務めていた時に、日本の重要人物の暗殺を目的とする韓人愛国団を結成した。韓人愛国団の歴史に残る活動としては、1932年1月8日に李奉昌が昭和天皇を暗殺しようと手りゅう弾を投げつけた事件(桜田門事件)と、1932年に中国・上海の虹口公園で尹奉吉が爆弾を投げつけて複数の日本人を死傷させた事件(上海天長節爆弾事件)の2つが挙げられる。両事件ともに金九が中心となって進められた。その後、1940年に大韓民国臨時政府の軍隊である韓国光復軍を組織したが、軍事訓練の指揮をとっていた最中に嬉しい知らせを受けた。1945年8月15日、光復を迎えたのである。

しかし、光復の後に金九が目にしたのは、彼が望んだ祖国の姿ではなかった。アメリカとソ連が朝鮮半島に38度線を引き、半島を2つに分けたのである。これを受け、金九は、今でも韓国の人々によく知られる「私の願い」や「3000万の同胞に泣告する」(1948年2月)といった文章を書いて、信託統治に反対し、自主独立路線による統一政府を樹立することを訴えた。当時韓国は、南側だけの単独政府を主張する李承晩派と、自主独立と統一政府を主張する金九・金奎植派に分かれており、金九と金奎植(キム・ギュシク)は1948年に平壌を訪問して「南北交渉4者会談」を行ったが、確かな成果を上げることはできなかった。その後も引き続き民族統一運動に捧げたが、1949年、暗殺により生涯を閉じた。

大韓民国臨時政府が制定した臨時の憲法条項を記した『大韓民国臨時約憲』

1944年4月20日、大韓民国臨時政府の立法機関である臨時議政院の「第36回臨時会議宣言書」。臨時政府の主席(金九)と副主席(金奎植)、国務委員(李始栄〈イ・シヨン〉、金朋濬〈キム・ブンジュン〉、金元鳳〈キム・ウォンボン〉など)を選出した会議の結果が印刷されている。

1986年6月10日に発行された金九の普通切手

1947年7月、金九が李始栄、曺成煥(チョ・ソンファン)などとともに仁徳を積む目的で結成した「輔仁契」の出資金が記録された基本出資簿(左)と、法律や規定などが書かれた条目。輔仁契について国内ではほとんど知られておらず、この資料は2018年に大韓民国歴史博物館が初めて公開した。

大韓民国歴史博物館を広く知ってもらうための参加型プログラム

大韓民国歴史博物館はさまざまな参加型プログラムを実施している。そのなかで長い歴史を誇るのは、今年で8回目を迎える「ハンゴルム(一歩)記者団」。当博物館の展示やさまざまな事業を知らせることに貢献しているが、今年からカードニュースの配信も始める予定で、記事作成、映像制作と合わせて13人の記者を選抜した。また、昨年から始まった「青少年サポーターズ」は、博物館内のさまざまなボランティア活動に参加し、博物館について発信する役割を担う。中学生10人、高校生10人から成り、今年も第2期参加者を募集した。さらに、子どもたちに人気なのが、常設展示室内の「ストーリーゾーン」で子ども目線の解説を行う「子どもドーセント」。書類審査と面接によって選ばれるが、毎年高い競争率を誇る。今年の第6期メンバーたちは4月から本格的な活動を行う。

National Meseum of Korean Contemporary History Newsletter 2021-1, Vol.56
198 Sejong-daero, Jongro-gu, Seoul, 03141, Republic of Korea / 82-2-3703-9200 / www.much.go.kr
Editor: Park Sookhee, Kook Sungha, Hong Yeonju, Lee Soojin, You Rial / Design: plus81studios

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